こんにちは。えのきです。

オーストラリアに来て早5カ月半が経ちました。半分以上が既に終わったことになります。

今回はこれまでの私のワーキングホリデーを振り返る回になります。

シドニーにくるまでのファーム編です。

実質一カ月程度の短い期間ですが、時間と密度は比例しないものです。それではいきましょう。

WWOOFボランティア生活

出国

初日はとにかく緊張の連続でした。

なにせ初めての海外一人旅。

言葉も満足に話せずお金もありません。挙句当時は「一年間農業をして生きてゆく」予定だったのですから、生まれたての赤ん坊と出来ることは大差ない状況です。

成田空港の出国ゲートを通るとそこはもう日本の外でした。
実際のところ法律上国外なだけで周りの景色はまだ日本でしたが、私にとっては国外でした。

するといきなり見知らぬ外国人が何か口ずさみながら近寄ってきました。

「おっ、これがうわさに聞く詐欺的なやつか??」

出国直後の張り詰めた警戒心で男性を見ると、彼は私のスマートフォンを手にしていました。

…どうやらゲートを通過してすぐに落としていたようです。

「さんきゅーさんきゅー」と照れくさく返事をして受け取ります。


彼は友人と思しき人物と一緒に日本語を話しながら去っていきました。
私は彼が日本人であったことに気づいて途端に赤面しました。

日本人相手に英語を使うと、悪いことをしているわけではないのに気恥ずかしさを感じてしまうのです。単なる英語コンプレックスの現れでした。

さようなら日本

飛行機に乗り、物理的にも出国するとますます緊張は膨らみました。
ここからはスマートフォンすら使えない未知の世界。

無事に生きて帰れますように、とひたすら祈りました。

お守り

8時間近いフライトの後、ようやく目にしたオーストラリアの大地は、これから始まる長く先の見えない旅を想像させました。

周りの日本人に着いてゆきながら無事に入国手続きを済ませると、どっと体に疲れを感じたものの、まずは外の景色を見てみようと思いケアンズ国際空港の外を歩いてみることにしました。

そこで私が見たものは、

「雨・熱・森」の三拍子でした

ケアンズ国際空港

着陸するあたりから分かってはいたのですが、空港の周りには何もなく、ただひたすらに続く熱帯林と、湿気と、おそらくはそれを引き起こした原因である雨がしんしんと降り続いていました。もわあとした独特のトロピカルな匂いも漂っていました。

少なくとも、ここには住みたくない。

湿気を親の仇ほど憎んでいる私。日本の梅雨以上のジメジメの中で生きてゆけるはずがありません。

飛行機を乗り換え南へと向かいます。

そしてついに降り立ったのが「ブリスベン空港」です。

ブリスベン空港
雲が低く感じた

清々しい快晴に、オーストラリアに求めていたのはこの景色だと胸を躍らせました。
しかしこの時点で日本からのフライトを始めて一日近くが経過していました。さすがに疲労が溜まっています。

どこかで一息つきたい…

けれど私にはそれができない理由がありました。
その日の夕暮れまでにこれから先しばらくお世話になる(予定の)おばあちゃんの家まで辿り着かなければならなかったからです。

おばあちゃんとは「WWOOF」というサイトを通じて知り合いました。私の当初の予定では、このWWOOFを用いて家を転々としつつ、オーストラリアで農業生活を謳歌するはずでした。しかし所詮はインターネット上で知り合った方。訪れた先で連絡が途絶えた、なんて事態も容易に想像ができました。それが何よりの不安でした。

ブリスベンからおばあちゃんの住むメープルトンという町には電車で3時間ほどの道程でした。駅員さんに地図を突き付けて行き方をなんとか聞き出し、チケットを手に入れ電車に乗り込みます。

遥か遠い移動

後はゆっくりしていれば近くの町まで行ける…、はずだったのですが。

出発して1時間、聞きなれない長いアナウンスの後電車が止まり、乗客たちが全員こぞって降りていくではありませんか。

かれらはいったいなにを……??

同じく英語を聞き取れなかったであろうヨーロピアンの若者と首をかしげて見つめ合います。しかし見つめ合うだけでは何も起こりません。電車も一向に進みません。周囲には店も何もありませんでした。こんなところで放り出されては何もできずに死ぬだけです。

まさかの1日目にしてワーホリ終了か?

そんな不安が過ります。するといつまで経っても電車を降りない乗客を見かねた車掌さんがズンズンこちらに寄ってきて、

「あのバスfn2r\qj23@!!!」と言ってくれました。

そこでようやく「何かの理由で電車が動かないからバスで代行してくれる」ということを理解した私は荷物を抱えて50メートル程先に停まっているバスに飛び乗ります。

バスが出発すると、窓の外で荷物を持ったまま途方に暮れているヨーロピアンの男性を目にしました。彼が今も無事に生きていることを願ってやみません。声をかけなかったことを悔やみました。

ごめんね

そこから順調にバスで揺られて1時間、ブリスベンから北に約100キロに位置する人口1万人ほどの比較的大きな町ナンボーに到着しました。

後はここから一日に4本運行しているバスに乗って30分行けばメープルトンに辿り着けるはずです。

しかしついにここで私の腹の減りが限界を迎えます。

オーストラリアに着いてから、食べ物という食べ物をろくに口にしていなかったのです。

理由は簡単、

「なんか店に入って話すのが怖いから」

小心者の私は満足に食事すらできませんでした。

とはいえこのままではおばあちゃんの下に辿り着く前に道端で朽ち果ててしまいかねません。水、となんでもいいから食べるものが欲しい。

するとすぐ傍にパン屋さんらしき看板がありました。パン屋は外観に温かみがあるので、他の店よりは比較的入りやすく感じ、ここで腹ごしらえをすることに決めました。

店に入ると挨拶も差し置いて、目についたパンを注文します。というよりも外で店の前を行ったり来たりしている間に決めていました。店員さんから見ると、入って1秒の神業です。

「ホットドッグブレッドひとつください!」

元気よく言い放つと、店員のおばちゃんは怪訝な目でこちらを見つめ、

「それでいいの…?」と聞き返してきました。

コクコクと頷いてお金を差し出すと、おばちゃんは細長い切れ目の入った只のパンを手渡してくれました。

これ

見るからに何の変哲もない切れ込みの入った只のパンでした。

完全に勘違いしていました。「ホットドッグブレッド」というのは、「ホットドッグを作るためのパン」であって「ホットドッグそのもの」ではなかったのです。

だからあんな不思議な顔していたのか、と合点しつつ、あたかも「私は初めからこれを求めていましたよ?」と言わんばかりの堂々とした風体で、味のないパンを齧りながらパン屋を悲しく後にしました。

この時おばあちゃんからメールが届き、いつのどのバスに乗ればいいかを教えてくれました。これまで1日半、20キロのバックパックを背負いながら風呂にも入らず飢え移動を続ける私がこの先そのままホームレスの風体になるか文化人として生還するかの帰路を示してくれました。

その日最後のメープルトン行きのバスに夕方乗り込み、一人また一人と減っていく乗客を眺めながら、ようやく最後の3人になった時点で私の番がやってきました。

ついに終着です。

真っ暗闇の外に一歩足を踏み出すと、どこから現れたかいきなり眼下にしわしわのおばあちゃんが、笑顔でこちらを見つめていました。

「は、はろー」

ぎこちない震えた挨拶とともに、オーストラリア生活の幕が開けました。

農場での生活

かわいい

おばあちゃんの家はメープルトンの外れの山奥にありました。
メープルトン自体が人口1500人の長閑な地域、車がなければ買い物の1つも満足に行くことは出来ません。

家の敷地は広大で、羊や山羊や七面鳥が飼われており、またそこかしこに果物や野菜が育てられていました。この家で食べるものは基本的にこの家で育てたものに限ります。

電気は通っていますが水道やガスはなく、水は雨をろ過したものを、ガスは時々家庭用ボンベを届けてもらっていました。携帯の電波すらほとんど届かない、まさに自然と共に生きることになりました。

私の仕事はそんな広大な敷地に生えてくる、雑草や木々を取り除くことでした。

振り回す日々

朝はワライカワセミの声で目を覚まし、手鎌とビニルシートを持ってその日の仕事場へ向かい、ひたすら何時間も根深い草や太い木の幹やジャンピングアントやヒルや蚊と格闘し、日暮れとともに家に帰りました。

時折刈った草を抱えて羊にやっては自家製のバナナスムージーで息をつく、都会の喧騒からは程遠い毎日がそこにはありました。

リビングから

初めはその物珍しさから楽しくその生活を続けていましたが、1週間を過ぎたあたりで不満を感じるようになりました。

理由は大きく3つありました。

「仕事」と「環境」と「人間関係」です。

先にも言った通り、私の仕事は「草を刈ること」でした。作業自体は大変ではあるもののやっていけないレベルではありませんでした。

ですが、朝から夕方までひたすら作業をする中で、会話やコミュニケーションを取る機会はほとんどありませんでした。今日の仕事内容を説明したおばあちゃんはすたこらとどこかへ行ってしまうからです。

雨が多いので

おばあちゃんは“パーマカルチャー”という理念に従って生活を営んでいました。

「パーマカルチャーとは、パーマネント(永続性)と農業(アグリカルチャー)、そして文化(カルチャー)を組み合わせた言葉で、永続可能な農業をもとに永続可能な文化、即ち、人と自然が共に豊かになるような関係を築いていくためのデザイン手法です。」

http://pccj.jp/permaculture/whats/

この文化はオーストラリア発祥で、持続可能性を見つめ直して自然との共生を図ろう、ということを目的としています。

おばあちゃんはその理念に従って、「出来る限り機械を用いず」生活をすることを頑として守っていました。だから私は日々鎌を振り回しているというわけです。

ですが半日をかけ手作業で草刈りを終え別の場所に移ると、時折おばあちゃんがやってきて激しいモータ音とともに草刈機がウォンウォンと私の半日の成果を10分でこなしてしまうのを目にしていました。

何のために働いているのだろう、と思わずにはいられない瞬間でした。
いくら働いても給料が出るわけでもなく、私が腕に足に切り傷を作って成した作業も機械にかかれば数十分で終えてしまうのですから。

そもそも私にボランティアとして働くのは向いていないのかもしれない、と「仕事」を通じて感じることも少なくありませんでした。

続いて「環境」について。

私のオーストラリア渡豪の目的はいくつかあるのですが、その中で最も大きく掲げているのが「芝生に転がって何も考えずにゴロゴロする」というものでした。

オーストラリアの田舎で生活をすれば、電子機器からも街の喧騒からも離れて理想の生活が送れるのではないか、と考えたのです。しかし実際に生活をしてみると、そこは私の思い描いていた世界とはかけ離れていました。

これは偏に私の下調べ不足が招いた結果なのですが、私の住んでいた地域は「亜熱帯地域」

初めに到着したケアンズをちょっとマシにしたくらいの気候です。つまり「雨・熱・森」が揃い踏みということで、「芝生でゴロゴロ」というよりは「ジャングルでムシムシ」に近い環境だったのです。

一応芝らしき芝はあれど、羊のフンだらけで転がれたものではなく、もしそんなことをしようものなら周囲に蔓延る蚊やヒルやジャンピングアントの恰好の的になってしまうこと間違いなしです。さらには1時間に1回は降っているのではないかと思われるほど頻繁な雨。自分が濡れているのは雨なのか汗なのかはたまた謎の虫の体液なのか、判別を付けるのは困難でしょう。

羊と七面鳥

その程度想定していかなければならなかったのかもしれませんが、清潔で安全な緑ある環境、というのはいくらか「都会的」であることを実感しました。

最後に「人間関係」です。

おばあちゃんの家の敷地内には私とおばあちゃんの他に、おばあちゃんの弟と居候の男性が住んでいました。弟さんは認知症で、居候の男性はおばあちゃんと結婚しているというわけではなく単に5年ほど前から住まわせてもらっている、とのことでした。人の関係は様々です。

私は日々の生活で弟さんと会話をする機会は少なく、基本的に仕事前や休憩中、夕食の時間などはおばあちゃんと居候の男性とだけ話をすることができました。

これが私にとって不満の1つでした。

なぜなら、会話の半分を占めるおばあちゃんと「あまり馬が合わなかった」からです。

おばあちゃんは「パーマカルチャー」の理念に沿って生活をしていることからも分かるように確固とした意志を持った人で、それ自体はとても尊敬しているのですが、時々「意見が固すぎる」と感じてしまう場面があり、それが問題を生む原因になりました。

おばあちゃんが口癖のように繰り返した言葉に「Typical」というものがありました。「典型的」という意味です。私はあまりこの言葉が好きではありませんでした。
おばあちゃんにはいくらかパーマカルチャーに従って生きていない人たちを下に見ている風がありました。私は時々それに言い返してしまっていました。

ここでの生活では、おばあちゃんたち以外に関係の輪は広がりません。

1週間に1度近くの町に連れていってもらいこっそりチョコレートを買いだめて持ち帰り、部屋でこそこそ食べているとき、おばあちゃんの生活スタイルにも従わずただ反駁しているだけの自分が悲しく思えました。

せめて年の近い新しい人や環境との出会いを次第に欲するようになりました。

というわけで、当初は2,3ヶ月滞在する予定だったWWOOFでの生活を3週間で終えることになりました。

不満ばかりを挙げましたが、貴重な経験を沢山することができたのは事実です。思い出補正をかけた今になって思うと楽しい思い出が多く想起されます。

居候の男性と一緒にナショナルパークを探検したり、

道なき道を
20キロ歩いた

穏やかな休日をサンシャインコーストでハンバーガーを食べながら過ごしたり、

朝日とサンシャインコースト
油!油!油!

イギリスから来たお友達たちと闇のゲーム(スクラブル)に興じたり、

命を懸けた戦い

なによりそれまで経験したことのない「パーマカルチャー」という生活スタイルを直に知れたこと、これが何より大きかったように思います。

次に目指すのは、電車で2時間、ブリスベンから程近くに位置するオーストラリア屈指の悪評漂う地「カブルチャー」です。数え切れない日本人の怨嗟と悲嘆の声が集う地です。ドラクエなら間違いなく魔王が住んでいます。

ボランティアの後はファームに行くことを決めていた私でしたがこの時点でお金はほとんど底を突きかけていました。遠くに行って失敗したら最後、間違いなく生きてはいけない。

そんな危惧が頭から離れず近くのファームを探し求めた結果、私はこの悪名高きカブルチャーに向かうことになりました。

最後の日、おばあちゃんにこれまでの感謝を告げると

「何かあったら帰ってきていいよ」

と優しくおばあちゃんは微笑んでくれ、何より心強い言葉を得た私は新しい生活へ足を踏み出したのでした。

呪われし大地カブルチャー

円満な決定

おばあちゃんの家からバスと電車を乗り継ぎ2時間半、遥か地平線が見渡せる荒地にぽつんぽつんと大岩がそびえる景色を車窓越しに眺めながら、ついにブリスベンに帰ってきました。空港からは遠くに見えた高層ビルの面影をついに拝むことができました。

ブリスベンの街並み

建物がある人がいる、とはしゃぐ私。ここでは電波を求めて部屋の隅でスマホを掲げる必要もないのです。

とはいえ喜んでばかりはいられません。遊びに来たわけではありませんでした。

私がブリスベンに訪れたのは、これからしばらく滞在して、おそらくは億万長者になれる予定の「ストロベリーファーム」の仕事を登録するオフィスを尋ねるためでした。

グーグルマップを使って歩くとそのオフィスは難なく見つかりました。
しかし案の定私には建物に入る勇気が出てきませんでした。頭の中で何度も言うべきセリフを反芻し、様々な会話のパターンをロールプレイ。あらゆる状況をシミュレーションします。
しかしいつまでもそうしてはいられません。敷地を巡回しているゴツイ警備員さんが訝し気な目でこちらを眺めているのに気づいて慌てて建物に飛び込みました。

そのままの勢いでオフィスの扉を叩きます。

ドンドンドンドン!!!!

間違えてヤクザの取り立てみたいな音量でノックしてしまいました。

扉の奥からなにやら声が聞こえ、すっと扉が開かれてアジア系の女性が出てきました。

途端に数十分のロールプレイが無に帰し頭がからっぽになります。

あちらからしたらカチコミに来たと思わしき日本人が部屋に入るや否や口をあんぐり開けて固まっているのですから、それは不気味な光景だったことでしょう。

すると扉を開けてくれた女性が、恐る恐る

「えのきさんですか…??」と尋ねてくれました。

目の前の女性が日本人だと分かると途端に安心し、背負っていた荷を下ろすことができました。

私がこのファームを見つけたのは、インターネットを通じてのことでした。

日本人求人サイトに載っている求人は悪徳なものばかりで利用は避けた方が良い、というアドバイスから、英語サイトを通じてホームページ運営者にメールを送りまくり、ようやく返ってきた一部の人から紹介を受けて仕事を得たのでした。私なりに苦労して手に入れたつもりでした。
日本人も働いているということもそこに決めた一因でした。当時はあまりに人恋しかったのです。

オフィスの椅子に促され座ると、これからのストロベリーファームでの生活について一通りの説明を受けます。

その説明では

  • 現在はピークシーズン前だが、週5日は仕事がある。
  • 住むファームハウスは綺麗で4~5人で共有する。
  • 家賃は週140ドル、仕事の多寡によって前後することもある。
  • セカンドワーキングホリデービザは確実に取れる。

といったことを言われました。

最後にスタッフ証として写真入りのカードを手渡され、同じタイミングで登録をしていたらしい中国人の女性と車に乗せられ高速道路を北上すること1時間弱、人口7万人ほどの町カブルチャーに到着しました。

ケンタッキー!
図書館、大きい

図書館もスーパーマーケットもケンタッキーもマクドナルドもある環境に心が躍ります。

日本人が騙されるファームが乱立する地域、という印象しかなかったので、てっきり見渡す限りの農地に奴隷のような出で立ちの日本人が息も絶え絶えに鍬を振り下ろしている光景を想像していました。カブルチャーは予想していたよりも町らしい町でした。

カブルチャーのショッピングモールに車を停め「必要なものを買ってくる」ように言われました。運転手さん曰く「ここで食べ物を買っておかないと後悔する」そうです。

隣の中国人の女性は私よりも英語が分からないようだったので、なんとか身振り手振り説明しながら必要になりそうな服や手袋などの道具、また食パンやチョコレートなど日持ちがして腹が満ちそうなものを買い込みました。
ここで謎の韓国人の男性二人が合流しました。彼らもどうやら同じファームハウスに向かうようで、ここで待ち合わせをしていたようです。簡単に挨拶をすると、一緒に車に乗り今度こそこれからの住居へ向かいます。

どうやら町の中心からファームハウスへはそれなりに距離があるようです。
自動車専用道を30分ほど走り、周囲はとっくに林に囲まれた頃、道半ばで車は減速し舗装されていない林と林の隙間の道へと入ってゆきました。

ガタガタと車を揺らして林を抜けると、目の前の景色が開けます。

「あれが君たちが働くストロベリーファームだ」

夕陽が林に姿を落とす頃、私はいくつかの家々を中心に碁盤の目のように広がるストロベリーファームに到着しました。

疑念の入居

ファームハウスの前に車を停めると、運転手さんは「Good luck」と言い残して去ってゆきました。取り残された私たちはどうしたものかと思案しましたが、とりあえず家に入って荷物を置こうということになりました。

家の前には簡単なデッキが作られており、椅子がいくつか設置されていました。そこに座って数名の男女が談笑しているのが見えたので、彼らがここの住人なのだと判断し挨拶をしました。

5,6人いた内の1人が日本人でした。とすると、ここにいる私と中国人の女性とで充分いっぱいいっぱいかな?

しかし驚くべきことに、家に入るとさらに7~8人の男女がダイニングテーブルを囲んでワイワイと何か話していました。彼らとも自己紹介を済ませます。2人がスペインから来た女性で、残りがインドネシアからのグループでした。

いやな予感が頭をよぎります。

部屋は2階にあるようです。階段へ行くには一旦外を経由しなければなりませんでしたので、家をぐるっと回りこみ、外階段から部屋へ上がろうとすると、上から日本人の2人組の男性が大騒ぎしながら降りてきました。

もう見なかったことにして部屋に入りました。

カーペットや壁は湿気でベトベトしていて、ドアには十センチほどの脚の長いクモがのそのそと歩いていました。くぐもった空気に顔をしかめつつ顔をあげると、所狭しと置かれた4台の2段ベッドが目に入りました。

4,5人で住むはずでは…??

疑問は残りますが、とりあえず荷物を置いてリビングへ下りました。

そこで同乗してきた中国人の女性が居たので話し合います。

ここは居て大丈夫なところなのか?聞いていた話と違わないか?

話し合っていると、家のオーナーと名乗るオーストラリア人の恰幅の良い男性が部屋へ入ってきて、私たちと握手を交わしました。そして部屋の家賃と敷金として家賃の2週間分のボンドを要求しました。

一瞬顔を見合わせる私たち。ですが出るという決断を下すには、この時点ではあまりにも情報が少なすぎました。

不安を残しつつボンドと家賃を支払うと、私たちにはそれぞれ1枚ずつ、実家の押し入れの奥を思わせる独特の埃の匂い漂うマットレスを支給されました。

改めて荷物を整理し、一通りの住人に挨拶を済ませると、同乗していた韓国人の男性二人が居ないことに気が付きます。どうやら彼らは家を見た時点でダメだと判断し、運転手さんの車に残ってそのまま駅まで連れていってもらったようでした。今思えば懸命な判断です。

決断の早さに驚く一方、これから先の生活に不安を残してこの日は部屋で休むことにしました。明日からついに仕事ができる、はずなのですから。

絶望の脱出

朝焼けに染まる農場

朝6時に起床すると、地平線がほんのり明るくなっていました。

仕事は6時半から始まります。

歩いて行ける距離

初めての人はここに集まるように、という指示を受け、これからの作業の説明を受けます。
私が訪れたシーズンの仕事は「ウィーディング」という作業でした。いわゆる「雑草取り」ですね。

ストロベリーの苗の周りに生えてくる雑草を刈ったり、枯れたストロベリーの茎を取り除いたりしてゆく単純作業です。2,3分で説明も終わり、私たちはロウ(列)ごとに配置されてひたすら雑草を刈ってゆきます。

ひたすら草を刈ってゆく

初めの1,2時間はなんなくこなしていましたが、腰をかがめたままカニ歩きをしながら行うこの作業、しだいに腰が悲鳴を上げてきました。

おまけに特段会話も何も発生しないものですから、とにかく暇でした。明日からは音楽を持ってこよう、と心に決めて黙々と作業をしました。

間に休憩を挟んで正午ごろ、マネージャーの号令とともに今日の業務が終了しました。

それほど長く働けなかったことを残念に思いつつ家に帰ります。
多くのワーカーは車で来ているため、仕事を終えると各々の家に向かって去ってゆきますが、私たちファームハウスの人間は徒歩でとぼとぼ帰宅するしかありません。

いかんせんファームハウスの周りには何もなく、スーパーも駅もどこにも行くことはできない場所にありました。ですので早く終わっても時間を持て余すだけでした。

私は特にすることもないのでダウンロードしていたフルハウスを観ていました。

蚊は多かった

あとはファームハウスの周りを行ったり来たりしていました。「散歩」のあだ名は伊達ではありません。

実際のところファームハウスの環境は熾烈を極めました。

4~5人と聞いていた住居人数は細胞分裂でも起こしたのか20人弱にまで膨れ上がっており、相反するようにキッチンも洗濯機もはたまたトイレすらも1つしかありませんでした。朝の行列に並んだ姿はお盆のディズニーランドを彷彿とさせました。

シャワーは私が入居して2,3日後にぷすんぷすんと音を立てて壊れ、以後冷たい水を垂れ流すだけのナニかに変わりました。小学校のプール前に浴びるシャワーのことを“地獄のシャワー”と呼んでいたのは全国共通でしょうか。シャワーを浴びる度に懐古に浸ることができました。

許されない環境でした。ですがこの劣悪さすら甘んじて受け入れている人が多いことも事実でした。

どうしてなのか尋ねてみると、皆一様に

「セカンドワーキングホリデービザのため」

と言いました。ちなみにですが、セカンドワーキングホリデービザとは、ワーキングホリデーとして2年目滞在するための権利です。農業など特定の仕事を88日以上することで手に入ります。

さらに同居していた日本人の先週のペイスリップ(給与明細)を見せてもらいました。

PDFファイルで送られていたペイスリップの下には「合計220ドル」と記されていました。

あ、これダメなやつだ。

私はファームハウスから脱出することを決めました。

卓球は上達したかな

しかし私の貯金残高はほとんど尽き果てていました。なんなら出発前から尽き果てていました。私がオーストラリアに来て最も成長を実感するのは貯金に対する意識が芽生えていることです。

しかし完全に0になってしまっては、本当に逃げたいときに逃げられなくなります。体験談の中では、ファームでお金を使い果たして移動したくてもできなくなってしまった人が多くいました。

生きてゆくだけでも、お金は必要です。

もしかしたら、ここが最後の移動のチャンスかもしれません。

ならば行くしかないだろう。私はファームハウスのオーナーを説得して預けていたボンドを奪い返し、「誰でも簡単に仕事は手に入る」と聞く南半球最大都市シドニーに移動することを決めました。

シドニーにさえ行けば、仕事が手に入る。

そうすれば、またやり直せるはず。

1週間で出会った多くの人達に別れを告げ、私はカブルチャーの駅から電車に乗りました。

仲良くなったインドネシア人から貰ったTシャツ

目指すはまたもブリスベンです。そしてそこからシドニーへ飛びます。

ワーキングホリデー1ヵ月目にして最大の賭けでした。もう後には引けませんでした。

しかしまだ私は楽観的でした。甘く見ていました。シドニーに行きさえすればなんとかなると信じていました。

この先に訪れる苦労をまだ私は知りませんでした。

シドニー編(前半)に続きます

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2 件のコメント

  • なんだか、日本にいたらしないような経験ですね・・・。まさにサバイバル!
    セカンドワーキングホリデービザなるものがあるんですね、知らなかったです。通常一年ですものね。
    でも、こんな大変な思いをしてもう1年いるのかーって思ってしまったり。
    オーストラリアのスーパーにならぶストロベリーは、こんな風にしてやってきているのか、などと
    7月に旅行した際に食べたことを思い出したりしました。

    サバイバル!えのきさん、生き抜いてるなーって感じです!

    そんなに頑張ってるのに、おばぁちゃん、そりゃないよ!傍らで機械で草むしってしまうなんてー。

    みんな同じ人間なのに、使用者側からはかなり下に見られてるような。
    日本も外国人労働者をどんどん迎えると決めたのだから、彼らに対してそんな風に今後ならないといいな。

    私だったら心折れちゃうな。えのきさん、頑張ってますよー!間違いない!

    ここを紹介したオフィスの女性、日本人ならちょっと、ここやばいよーって言ってほしかったなー。
    現地知らないのかもしれないですねー。

    ほんと、知らないことばかりです。えのきさん、応援してますよー!

    • いつもありがとうございます!セカンドワーキングホリデービザ、自分は正直あまり欲しいと思わないのですが、実際自分がオーストラリアで出会った人たちは出来る限り残りたい!という人も多いですね。
      スーパーで買う果物に関してはいつもファームで働く人のことを想像してしまうようになりました笑
      日本で働く外国の人はオーストラリアで働くより文化的にもっと大変かもしれませんね。
      ちなみにオフィスの日本人の女性もファームで雇われているアルバイトで人を紹介して稼いでいたようですよ。
      またファームに経つことになると思うので、この経験を糧に出来たらと思います。

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